論文要旨:夏目漱石と魯迅は近代日本と近代中國を生きた文學(xué)者であり、日本文學(xué)と中國文學(xué)史上の泰斗である。二人とも外國留學(xué)の異國體験を持っている。留學(xué)先が違うが、その異國體験は後に二人の文學(xué)ヘの影響を與えた。日本へ留學(xué)に來た魯迅は、漱石文學(xué)を愛読していた。後に漱石の作品を翻訳し、『現(xiàn)代日本小説集』附録「作者に関する説明」に夏目漱石の紹介文を書いた。その紹介文から魯迅の漱石観を伺えるのであろう。本論文では、漱石と魯迅を簡単に紹介する上で、二人の留學(xué)體験を検討していきたい。
夏目漱石は、江戸生まれ、本名金之助である。明治三十三年九月から明治三十六年一月までイギリスで留學(xué)した。イギリス留學(xué)後、教職を辭して朝日新聞の専屬作家となった。自然主義と対立し、心理的手法で近代人の孤獨(dú)やエゴイズムを追求、晩年は「則天去私」の境地を求めた。日本近代文學(xué)史上の大文豪である。
魯迅は、1881年(清、光緒7年)、浙江省紹興に生まれた。本名周樹人、もう少し正確にいうと、少年時(shí)代の本名は樟樹、樹人というのは1898年南京の學(xué)校に入る時(shí)につけた名、魯迅は1918年「狂人日記」を発表する時(shí)に使い、以後も彼の代表的な名となった筆名である。1902年1月礦物鉄路學(xué)堂を卒業(yè)した魯迅は、留學(xué)生として日本に派遣されることなり、4月日本に著くと、その月の末に弘文學(xué)院に入學(xué)した。日本留學(xué)中の魯迅は有名な「幻燈事件」をきっかけいとして「文學(xué)の道」を選んだのである。
二人の留學(xué)
漱石――英文學(xué)から漢文學(xué)へ
漱石と魯迅は近代日本と近代中國の初期を生きた文學(xué)者である。漱石は明治二十三年東京帝國大學(xué)英文科に入學(xué)した。卒業(yè)後高等學(xué)校の教師として、松本、熊本へと歴任した後、明治三十三年文部省派遣の留學(xué)生として、イギリスへ渡った。留學(xué)の目的は英語及び英文學(xué)の研究であった。二年間の留學(xué)は漱石にとって陰鬱で、暗い二年間であった。彼は『文學(xué)論』の序文に次のように回想している?!競惗丐俗·吣氦椁筏郡攵辘嫌趣獠挥淇欷味辘胜辍?。イギリスにいる漱石は前から持っている神経衰弱が強(qiáng)くなった。暗くて陰鬱な生活を過ごしていた。その悩みと不安の中に漱石はつくづぐ日本の前途を考え、日本は真面目ならざるべからず、日本人の眼は大ならざるべからずと考えていた。また、彼は西洋における文學(xué)の概念と彼幼い頃から親しんでいる漢學(xué)でいう文學(xué)の概念との違いがあると考えていた。そこで彼は、「初めて文學(xué)とは何なものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるより外に」自分を救う道がないと悟った。『文學(xué)論』は漱石のイギリス留學(xué)の産物ともいえるが、「自己本位」を自覚したのは彼のイギリス留學(xué)の本當(dāng)の産物だと考えている。漱石がイギリスで西洋と苦闘して神経衰弱になって日本に帰って來た明治三十六年に、魯迅は日本に留學(xué)した。
魯迅――醫(yī)學(xué)から文學(xué)へ
魯迅は1902年九月、仙臺(tái)醫(yī)學(xué)専門學(xué)校で入學(xué)した。本來は東京帝國大學(xué)の工學(xué)部採礦冶金工學(xué)科に入學(xué)すべきものだったのを、自分の意思で醫(yī)學(xué)を選んだのだという。醫(yī)學(xué)を選んだ動(dòng)機(jī)として、彼自身は、父が病気の時(shí)の體験を通じて漢方醫(yī)は信頼できぬと思ったこと、日本の明治維新に新しい醫(yī)學(xué)が大きな役割を果たしたことを知ったことをあげている。しかし、魯迅は後に醫(yī)學(xué)から文學(xué)へ志望を変えた。それはいわゆる「幻燈事件」をきっかけであった。その時(shí)は仙臺(tái)醫(yī)學(xué)専門學(xué)校の細(xì)菌學(xué)の講義の時(shí)であった。あの講義で映された幻燈に中國人が日本軍人に処刑される場面があった。ロシア軍のスパイを働いたのだ、という説明だった。その周りには、それを無感動(dòng)に見物する中國人が映っていた。それを見て、魯迅は精神が惰弱な國民は醫(yī)學(xué)では救えない、精神の病を直すもの、それは文學(xué)だ、と思った。魯迅自身は「藤野先生」に「中國人『露探』処刑幻燈事件」について次のように書いている。
だが私はつづいて中國が銃殺されるのを見る運(yùn)命に出會(huì)った。第二學(xué)年には細(xì)菌學(xué)という新たな科目があり、細(xì)菌の形狀は、すべて幻燈で示された。講義が一段落ついて、しかもなお次の授業(yè)まで時(shí)間がある時(shí)には、時(shí)局のフイルムを映してくれたが、もちろん皆日本がロシアに勝った情景であった。ところが、ふと中國人がその中に出て來た。ロシア人のためにスパイをしたので、日本軍に捕まり、銃殺されるのであった。それを取り囲んで見ているのがまた一群の中國人であった。そして教室にはまた私というものがいた。
『萬歳!』かれらはみな手を打って歓呼した。
この歓呼は一つ映されるごとに起こった。だが私にはこの聲が特別に身にこたえた。その後中國へ帰り、あの銃殺犯人をのんびり見物する人たちを見たが、かれらも酒酔ったように喝彩するではないか!ああ、施す手なし!だがあの時(shí)あの地において、私の考えは変わってしまった
魯迅は日本留學(xué)の時(shí)期この「幻燈事件」をきっかけとして「棄醫(yī)從文」の道を選んだのである。
林業(yè)氏は漱石と魯迅の留學(xué)の相違を次のように指摘している
1.二人の留學(xué)が時(shí)期的に接近していたにもかかわらず、それぞれの背負(fù)っていた現(xiàn)実がかなり違っていた。漱石の場合は三十余年間外発的進(jìn)んできた近代であり、魯迅の場合は封建王朝と半植民地の現(xiàn)実であった。
2.留學(xué)中の漱石は「個(gè)人主義」の基本的な立場「自己本位」に目覚めた。一方、魯迅は「個(gè)」の自覚に志すようになる。魯迅が仙臺(tái)醫(yī)學(xué)専門學(xué)校を退學(xué)して、文學(xué)に志をたてたことは、彼の來の目覚めを象徴している。主體性の確立という點(diǎn)において、漱石の「自己本位」の目覚めと共通するといえよう。しかも個(gè)人主義を利己主義と厳密に區(qū)別する點(diǎn)においても二人は共通する。(中 略)漱石も魯迅も日本人或いは中國人の主體性の確立を目指した。しかも二人とも文學(xué)的にこれを目指したのであるが、魯迅には、半植民地、封建制度の現(xiàn)実から中國民族を解放することなしに、近代の現(xiàn)実は考えられなかった。彼の考え方には民族的、政治的な個(gè)性を多分に帯びていた。ここは魯迅と漱石の根本的に異なることである。
3.精神的基盤と背景の相違はまた二人の思想発展の方向にも相違をもたらした。漱石の場合は「自己本位」が「個(gè)々人主義」へと発展し、基本的に実存的な方向に向かって深化していった。しかし、魯迅の場合は、社會(huì)と中國民族の暗部の抉剔に深化していった。その抉剔の過程はまた彼自身を解剖する過程でもあった。
「個(gè)」の自覚の初期段階に見られるこれらの相違はやがて成長していく二人の思想と文學(xué)に性質(zhì)上の違いをもたらす
のである。
日本留學(xué)中に、魯迅が夏目漱石に寄せた関心の深さには、皆々ならぬものがあった。1906年より東京で魯迅と起居を共にしつつ、その文學(xué)運(yùn)動(dòng)の最大の協(xié)力者となっていた弟の周作人は、次のように証言した。
當(dāng)時(shí)日本に留學(xué)していた魯は、自然主義派がさかんに漱石を繰りひろげていたことを熟知していたはずである。そして「余裕の文學(xué)」という言葉が、自然主義派の文脈においては罵詈貳近い性質(zhì)のものであるにもかかわらず、わざわざ「鶏頭序」を長く引用して好意的評(píng)価としての言葉を用いたのは、おそらく魯迅なりの自然主義派にたいする反批判であったろう。
魯迅は漱石に対する文學(xué)的なヒ評(píng)価は當(dāng)時(shí)の時(shí)代風(fēng)潮の影響に與えられず、魯迅なりの視點(diǎn)を持っている。この點(diǎn)は漱石文學(xué)と魯迅文學(xué)における味わえる面白い視點(diǎn)だと考えている。
參考文獻(xiàn):
[1]林業(yè).漱石と魯迅の比較文學(xué)研究[M].平成五年十月五日,新典社.
[2]藤井省三.ロシアの影 夏目漱石と魯迅[M].昭和六十年四月十五日,平凡社.
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[4]荒正人.夏目漱石[M].昭和三十二年二月十五日,五月書房.
【作者簡介】朱翔,玉溪師范學(xué)院。