摘 ?要:日本自古以來以吸收外國(guó)優(yōu)秀文化而著稱,日本在吸收外國(guó)文史并不是盲目地不假思索的全盤照搬吸收,而是做了一定的甄別,并且在不動(dòng)搖本國(guó)文化的基石的基礎(chǔ)上與本國(guó)文化進(jìn)行融合,它認(rèn)同西洋文化的優(yōu)秀之處,通過提出“東洋道德西洋藝術(shù)”來鼓勵(lì)自己抓住改變自己的難得的歷史機(jī)遇,本文主要對(duì)“東洋道德西洋藝術(shù)”的形成、與日本文化的融合之后形成新的日本文化進(jìn)行論述。
關(guān)鍵詞:東洋道德;西洋藝術(shù);洋學(xué)
作者簡(jiǎn)介:馬保彪(1981.8-),男,遼寧省朝陽市人,研究生,講師,研究方向:日本文化。
[中圖分類號(hào)]:G11 ?[文獻(xiàn)標(biāo)識(shí)碼]:A
[文章編號(hào)]:1002-2139(2015)-30--01
一、 はじめに
佐久間象山は文化8年(1811年)2月28日、信濃國(guó)埴科郡松代町字浦町に生まれた。名を國(guó)忠、通稱啓之助といい、號(hào)の象山は松代にある海抜475メートルの山の名前に由來する。本稿は西洋學(xué)術(shù)を?qū)Wぶことは朱子學(xué)と相容れないものではないとする象山の「東洋道徳、西洋蕓術(shù)」思想から象山が辿りつく経緯とその捉え方、さらに西洋蕓術(shù)を受容する象山に関する資料の分析をしていきたい。
二、朱子學(xué)への崇拝と洋學(xué)への注目
(一)朱子學(xué)への崇拝
天保11年九月象山が「卲康節(jié)先生文集序」に次のように書いていたことである。
佐久 間象山(1913)爲(wèi)學(xué)之要。在格物窮理。而方今人士。皆知誦格窮之訓(xùn)。正學(xué)之旨。若大明於世。然其實(shí)日就雜擾偏固。旋復(fù)晦盲。余嘗濬思其故。無亦學(xué)者徒誦坐譚。不務(wù)其實(shí)之過歟。今之人。試與之言物理。輙曰。吾方窮人倫日用之不暇。而何暇窮物之理乎。嗟乎豈有人倫日用。而外於物理者耶。余未見昧於物理。而周於人倫日用者也。[1] 佐久間象山(1913)P379參照
象山はアヘン戦爭(zhēng)の情報(bào)入手をするまでは、朱子學(xué)を正統(tǒng)に見受けている。佐久 間象山(1913)「予二十以後、乃知匹夫有繋一國(guó)」[2] 佐久間象山(1913)P24參照という鎖國(guó)下の閉じた日本的世界観の枠に縛られたのであった。まさに、朱子學(xué)に心酔する者である。大平 喜間多(1959)その時(shí)期は象山は日本と中國(guó)は封建制度の仕組みが同じだと見なし、それにより儒學(xué)に深い関心を示し、中でも「正學(xué)」と信じる朱子學(xué)を再興することが実踐的関心の主要な內(nèi)容となっていたのである。[3] 大平喜間多(1959)P24參照
(二)洋學(xué)への注目
日本では、1720年の徳川吉宗の改革はヨーロッパ文化の伝播を促進(jìn)した。オランダを媒介とする「蘭學(xué)」19世紀(jì)20、30年代に幕府に弾圧された。特に注目されたのは「蠻社の獄」という洋學(xué)者弾圧事件だったのである。洋學(xué)研究グループ「尚歯會(huì)」の主要メンバーであった高野長(zhǎng)英(1804-1850)は捕縛され、獄中で『和壽禮加多美』(別名 「鳥の鳴音」を草したことによって、當(dāng)時(shí)の蘭學(xué)は日本の政権側(cè)にきわめて異端視され、この苛酷な狀況はアヘン戦爭(zhēng)が起きる直前まで、日本の洋學(xué)に対する基本的な捉え方と見なされるだろう。
三、洋學(xué)の勉強(qiáng)とその朱子學(xué)的な意味づけ
1842(天保13)年のアヘン戦爭(zhēng)で中國(guó)が英國(guó)の火砲の前に屈伏を余儀なくされた事件からで、日本の朝野に余程大きな衝撃を與えたものだろう。すでに朱子學(xué)から目覚めた象山の洋學(xué)研究は蘭學(xué)の學(xué)習(xí)から始まった。象山はいつ頃から蘭學(xué)に関心をもち、又蘭學(xué)の修業(yè)に入ったのであろうか。それは天保13年(32才)9月江川太郎左衛(wèi)門の門に入り下曾根金三郎,村上貞平等と交るようになってからだと思う。『象山全集上 佐久間象山年譜』には次のような陳述が証明してくれたのである。
佐久間 象山(1913)九月七日砲術(shù)師範(fàn)江川太郎左衛(wèi)門に入門し翌十四年二月六日免許を受く(江川門人録)後麾下の士下曾根金三郎に就き傳書數(shù)冊(cè)を?qū)懁酚痔镌看迳县懫饯私护悉暌妞蚴埭?。[4]佐久間 象山(1913)P20參照
四、終わりに
象山を代表とする方々は西洋文化を吸収するにあたって、そのままコピーしていないが、民族伝統(tǒng)文化の姿勢(shì)を崩さずに洗練して取り入れたわけである。西洋科學(xué)技術(shù)の打撃を受け、「東洋道徳、西洋蕓術(shù)」をパターンとする日本の成功は我々中國(guó)の外來文化を取り入れる時(shí)の見本だと思われる。中國(guó)の近代化過程に対する反省を通して、われわれは中國(guó)の伝統(tǒng)知恵からいろいろなヒントをもらえるのであろう。落ち著いて長(zhǎng)い目で中國(guó)文化と外來文化を融合させる。世界のメジャー文化の一つとしての中國(guó)文化は近代の打撃を受け、反省を通して、姿勢(shì)を整えて外來文化を適切に取り入れ、融合、定著すれば必ず洋々たる前途を迎えることができるだろう。
參考文獻(xiàn):
[1]佐久間象山.(1913)「卲康節(jié)先生文集序」;『象山全集上』P379,尚文館, 新潟.
[2]佐久間象山.(1913)「省けん録」;『象山全集上』P24,尚文館,新潟.
[3]大平喜間多.(1959)『佐久間象山』 P45-48,吉川弘文館,東京.
[4]佐久間象山.(1913)「佐久間象山年譜」;『象山全集上』P20,尚文館,新潟.